6.考察 (後世比較)
★「5.『倭人の条』全文」 における外交記事の考察は、下記項目 6.1~6.4 の通り。6.1 「倭人の条」 に、魏朝-倭の外交史を記述した理由
◆「倭人の条」 における外交記事(637字)が、次の通り、「倭人の条」 全体(2,040字)
の 31.2% に及び、その中でも今回の視察までの第1次朝貢外交(西暦239~241
年)の記事(388字)が大半を占めているように、倭を魏の傘下に入れる外交政策を
重視し、それが成功した経緯を顕彰するために記述した。
| 「5.『倭人の条』」 における 外交記事 | 字数 | 内訳比率 |
| 項目 5.28~5.31 第1次朝貢外交(西暦239~241年) | 388字 | 19.0% |
| 項目 5.32 第2次朝貢外交(西暦243~244年) | 51字 | 2.5% |
| 項目 5.33~5.35 「黄幢」 外交 (西暦245~248年) | 145字 | 7.1% |
| 項目 5.36 第3次朝貢外交(西暦249年) | 53字 | 2.6% |
| 外交記事の合計 | 637字 | 31.2% |
| 戦略記事の合計 | 1,403字 | 68.8% |
| 「倭人の条」 全体 | 2,040字 | 100.0% |
6.2 「倭人の条」 に、今回の視察より後の魏朝-倭の外交史が追加された理由
◆上記項目 5.28~5.31 (第1次朝貢外交)により、倭を魏の傘下に入れることに成
功したものの、その後、倭が呉や韓と組しないよう、倭を継続して査察した結果、
項目 5.36 (第3次朝貢外交)のように、倭王が交代しても倭の朝貢は継続し、魏朝
と倭の親密な関係を存続させることに成功した経緯を顕彰するために追加された。
魏朝と倭との親密な関係が、魏朝大将軍司馬懿によるクーデター(高平陵の変)の年
(西暦249年)まで、継続して記述されている。
なお、高平陵の変とは、正始10年(西暦249年)1月に起きた魏の政変で、高齢と病
気を理由に引退を装っていた司馬懿が、魏の曹爽一派を討って魏朝の権力を掌握し、
司馬一族が魏朝を凌ぐほどになり、次の晋王朝になるきっかけとなった事件。
6.3 魏朝-倭の外交史のまとめ と 魏朝外交ルール
| 項目 | 第1次朝貢外交 (西暦239~241年) |
| 5.28 | 景初二年(西暦238年)6月、実は、景初三年(西暦239年)6月、倭の女王が、 大夫難升米らを(帶方)郡に派遣して、天子に詣り、朝献することを求めた。 (帶方郡)太守劉夏は、役人と将官を派遣し、彼らを都(洛陽)に送らせた。 |
| 「大夫難升米等」 のように、「等」 の前にある 「難升米」 のような名前は、 代表者 1名の名前(以下、同じ)である。 ここで、「景初二年六月」(西暦238年6月)とあるが、 下記項目 5.30 にある 「正始元年」(西暦240年)の前年の 「景初三年六月」 (西暦239年6月)の誤植であり、その理由は、次の通り。 ● 西暦204年に、公孫氏が、楽浪郡の南に、帶方郡を設置・支配し、 西暦236年に、燕王を名乗るようになって、魏と衝突し、 西暦238年8月に、魏朝将軍司馬懿により、滅ぼされるまでの不安定な情勢 下では、戦地に赴くような、倭による西暦238年6月の朝貢は、あり得ない。 ● 魏が、公孫氏を討って、公孫氏の帶方郡を獲得するのは、 西暦238年8月であるから、西暦238年6月の時点では、 魏の劉夏は、帶方郡太守に着任できない。 ● 魏としては、倭が呉と組まないうちに、早く、倭を魏の傘下に入れるために は、倭の朝貢から時を隔てずに、下記項目 5.30 にある 「正始元年」(西暦 240年)の答礼訪問をしたはずであるから、この倭による朝貢は、 「正始元年」(西暦240年)の前年 「景初三年六月」(西暦239年6月)が妥当 で、「景初二年六月」(西暦238年6月)からでは、間が空過ぎる。 ● 下記項目 5.30 にある 「正始元年」(西暦240年)の魏による答礼訪問では、 初めての倭への旅であるから、旅のガイドとして、倭の使者らを同行させて 送還するために、魏船(郡使船)出発の 「正始元年」(西暦240年)まで、 帶方郡に、倭の使者らを滞在させることになるので、その滞在期間は、 「正始元年」(西暦240年)の前年の 「景初三年」(西暦239年)からとするの が、妥当であり、「景初二年」(西暦238年)からとするのでは、長過ぎる。 | |
| 外交 ルール | ● 倭の使者が帶方郡に詣るのは、6月(以後の使者の往来は、同月のため省略)。 ● 倭の使者が魏朝に朝献するときの窓口は、帶方郡太守。 ● 帶方郡に到着した倭の使者を、帶方郡の役人と将官が洛陽の都に送り届ける。 |
| 5.29 | その年(西暦239年)12月の詔書は、倭の女王に、次のように報じた。 『親魏倭王卑彌呼に制詔する。 帶方(郡)太守劉夏が、使者を派遣して、汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、 汝が献上するところの男の生口4人・女の生口6人・班布2匹2丈を奉じさせた。 汝は、遥か遠くに居るにも拘らず、使者をして朝貢してきたのは、汝の忠孝なり。 私は、汝を甚だ憐れみ、このたび、汝を親魏倭王と為すによって、 金印・紫綬を裝封して、帶方(郡)太守に託し、汝にそれを仮授する。 種族の人々をいたわり、勉めて孝順となせ。 汝の使者である難升米・(都市)牛利は、遠路やってきて、ご苦労であった。 このたび、難升米を 「率善中郎將」 に、(都市)牛利を 「率善校尉」 と為すによ って、銀印・靑綬を仮授し、引見して労い、(使者を派遣して)送還させる。 今、絳地交龍錦5匹【臣の松之が思うに、地は、綈とすべきで、漢の文帝が着た 皁衣を戈綈といったが、それが、これである。この体をなさない字は、魏朝の過 失でなく、伝写した者の誤りである。】・絳地縐粟罽10張・蒨絳50匹・紺青50 匹を以って、汝が献じた貢物に、直に答える。 また、特に、汝には、紺地句文錦3匹・細班華罽5張・白絹50匹・金8兩・5尺刀2 口・銅鏡100枚・真珠・鈆丹各50斤を下賜する。 皆、裝封して、難升米・(都市)牛利に託す。 帰ってから、すべてを目録通り、受け取り、汝の国中の人々に示し、 魏朝が汝を憐れんでいることを、知らしめよ。 そのために、丁重に、汝に好物を賜うのである。』 |
| 倭を味方に付けるため、魏朝は、過分な感状の詔書により、 倭の貢物に答える賜物に加えて、女王個人への好物も下賜した。 女王卑彌呼を、「親魏倭王」(金印紫綬付き)としただけでなく、 使者の難升米・都市牛利に対しても、 夫々、「率善中郎將」・「率善校尉」(銀印靑綬付き)とした。 ここで、「汝大夫難升米」 とあるのは、 女王卑彌呼の親書がなく、大夫難升米が、女王卑彌呼の言葉を伝えるからで、 宮殿の内務官職の 「率善中郎將」 に符合する。 しかし、魏朝が、倭の使者に対して、勝手に、魏の官職を与えたことや、 「大夫」 ではなく、「次使」 とある都市牛利(省略形を 「牛利」、大夫難升米を 護衛するために同行)に対しても、千人兵隊長職の 「率善校尉」 にしたこと、 については、 倭の伊都国王や邪馬壹国の無印綬の高官からの反発が、予想されるものの、 この魏朝の制詔を、倭王が受諾すると、倭が、魏の傘下に入ったことになる。 また、倭の使者に対して 「遣還」 とあるように、 魏が、使者を派遣して、倭の使者を送還するということは、 逆に、帶方郡の使者が帰還するときには、 当然、倭が、使者を派遣して、帶方郡の使者を送還しなければならない。 | |
| 外交 ルール | ● 魏朝の詔書・賜物は、12月(以後同月のため省略)、倭の使者に 「假授」 する。 ● 倭王の朝貢親書がないため、倭の使者の大夫が、倭王の言葉を上表する。 ● 相手方の使者が帰還するときには、使者を派遣して、相手の国まで送還する。 |
| 5.30 | 正始元年(西暦240年)、(帶方郡の)太守弓遵が、「建忠校尉」 梯儁らを派遣し、 詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮(魏朝から見て、格下への拝謁)し、 詔書を読み上げ、金・帛(絹)・錦・罽・刀・鏡・采物(採集物)を下賜した。 |
| 帶方郡の太守は、前年(西暦239年)の劉夏から弓遵に交代し、使者を、 倭の 「率善校尉」 都市牛利と同格の 「建忠校尉」 梯儁とし、将兵を引率させた。 上記項目 5.29 で、「假授」 した詔書・印綬・賜物(ここに記述されているのは、 女王卑彌呼個人向けのみで、他の賜物は省略)は、今回の視察の西暦240年に、 帶方郡の使者が持参し、責任を持って、送達したのである。 | |
| 外交 ルール | ● 帶方郡の使者は、魏朝の詔書・印綬・賜物を持参して、倭王に送達する。 ● 帶方郡の使者は、詔書を読み上げ、倭王に下賜して、「假授」 を実体化する。 |
| 5.31 | 倭王は、使者により、詔書に対する感謝の答礼を上表した。 |
| 上記項目 5.30 (今回の視察の西暦240年)で、帶方郡の使者が送達した詔書 に対し、倭王による答礼は、今回の視察の復路(西暦241年)で、倭の使者 (上記項目 5.28・5.29 と同じ大夫難升米らで、冗長になるため省略)が上表。 このように、帶方郡の使者は、魏朝の詔書・賜物を責任を持って、送達し、 倭の使者は、倭王の答礼を責任を持って、上表するのである。 この倭の使者が、倭王の答礼を上表したことにより、倭が、魏の傘下に入り、 今回の視察の目的は、達せられた。 | |
| 外交 ルール | ● 魏朝の詔書に対しては、倭王の答礼(返答)が必要。 ● 倭王の答礼にも親書がないため、倭王の言葉を上表する大夫を派遣させる。 ● 倭王の答礼を上表した後の使者は、(省略されているが)自身で帰還する。 |
| 項目 | 第2次朝貢外交 (西暦243~244年) |
| 5.32 | その(正始)四年(西暦243年)、倭王が、また、使者の大夫伊聲耆掖邪狗ら 8人 を派遣してきて、生口・倭錦・絳靑縑・緜衣・丹・木拊短弓・矢を献上した。 (伊聲耆)掖邪狗ら一同は、「率善中郎將」 の印綬を受け取った。 |
| 上記項目 5.30・5.31 のときに注目した項目 5.15 の 「木弓」・「竹箭」 と項 目 5.16・5.18 の 「朱丹」・「丹」 を、「木拊短弓矢」・「丹」 として献上させた。 「伊聲耆掖邪狗」 は、筆頭使者 1名の名前であり、省略形を 「掖邪狗」 という。 新参使者大夫 8人とも、上記項目 5.29 の難升米と同じ 「率善中郎將」 の印 綬を受けたが、仮に、次使が、「率善校尉」 都市牛利なら、新たな印綬はない。 これを知った倭は、下記項目 5.36 の次回朝貢では、使者を 20人に増員する。 なお、魏朝は、上記 「率善中郎將」 の印綬だけではなく、上記項目 5.29 と同 様、貢物に対する賜物を下賜し、その賜物と詔書を、帶方郡の使者(「建忠校尉」 梯儁ら)が、倭にもたらすが、冗長になるため省略。 | |
| 外交 ルール | ● 魏朝は、貢物について、「木拊短弓矢」・「丹」 のように、指定することもある。 ● 魏朝は、新参使者には、印綬を授ける。 |
| 項目 | 「黄幢」 外交 (西暦245~248年) |
| 5.33 | その(正始)六年(西暦245年)に詔して、倭の難升米に黄幢を下賜し、 (帶方)郡に託して、仮授させた。 |
| 「黄幢」(魏の軍旗)を倭の難升米に下賜する経緯は、省略したが、次の通り。 上記項目 5.32 の正始四年(西暦243年)の倭による朝貢に対して、 翌年正始五年(西暦244年)に、魏朝から賜物を倭王に下賜し、 その翌年(本年)正始六年(西暦245年)に、倭の使者難升米らにより、 倭王の答礼が、魏朝に上表された。 その答礼上表の中に、『倭の敵(狗奴国)に対しても、魏朝の威光を示したい』 旨の表現があり、倭王が魏朝に 「黄幢」 の貸与を請願したものと、受け取った。 ときの帶方郡太守弓遵は、この詔書・「黄幢」 を倭の難升米らに仮授したが、韓 地制圧に忙殺され、倭にもたらす機会を逸し、帶方郡に保管したままになった。 | |
| 外交 ルール | ● 「黄幢」(魏の軍旗)の下賜についても、魏朝の詔書がある。 ● 詔書・「黄幢」 は、託される帶方郡の都合で、倭への送達が遅れることがある。 |
| 5.34 | その(正始)八年(西暦247年)、(帶方郡)太守王頎が、着任した。 狗奴国の男王卑彌弓呼と以前より争っていた倭の女王卑彌呼は、倭の載斯烏越 らを派遣して、(帶方)郡に詣らせ、攻撃しあった状況を説明させた。 |
| 帶方郡太守の交代があったため、倭の使者が、新任太守に狗奴国との戦況を説 明したとき、上記項目 5.33 で前の太守弓遵から難升米に仮授された詔書・ 「黄幢」 について督促したことで、下記項目 5.35 のように、倭にもたらすこ とになった。 「相攻撃状」 の説明内容は、省略したが、要旨は、次の通り。 ● 西暦146年頃、倭国大乱で、倭が、狗奴国の地に侵攻し、敗北。 ● 西暦150年頃、狗奴国が奴国に進入してきたが、消耗戦で撃退、故地を奪還。 ● 西暦160年頃、倭軍の強化・再編を行ない、倭が、狗奴国の地に本格侵攻。 ● 西暦189年頃、倭が、狗奴国を、倭地南端の大隅僻地に追い込む。 ● 昨年西暦246年頃、女王卑彌呼の(元)摂政の 「男弟」 を、狗奴国に追放。 ● 来年西暦248年(女王卑彌呼の存命中)には、狗奴国を滅ぼしたい。 この正始八年(西暦247年)は、本来は、第3次朝貢の年回りであったが、 正始六年(西暦245年)に難升米に仮授された 「黄幢」 が、 帶方郡太守弓遵から未だ送達されず、また、帶方郡太守が、王頎に交代したため、 倭王卑彌呼は、第3次朝貢を延期し、 代りに、新任太守王頎への戦況報告と称して、「黄幢」 督促を命じた。 | |
| 外交 ルール | ● 帶方郡からの送達が遅れているときは、帶方郡に督促できる。 ● 帶方郡への督促は、太守交代等の機会に、戦況説明等の形を採る。 |
| 5.35 | (帶方郡太守王頎は、)「塞曹掾史」 張政らを派遣し、詔書・黄幢をもたらしたこ とで、難升米に拝仮(魏朝から見て、格下への拝謁)し、檄文を為して、告諭した。 卑彌呼の死では、径 100餘歩(5倍数)の冢を大作し、殉葬者が奴婢 100餘人。 あらためて、男王を立てたが、国中が服従せず、更に、互いに罪をとがめて、 殺しあうことが続き、そのとき、殺されたものは、1,000餘人に達した。 (それで、)復た、卑彌呼の一族の少女壹與、年が(倭暦の2倍年暦)13歳(2倍 数)、を立てて王にしたところ、国中が、ようやく定まった。 (帶方郡の使者、張)政らは、檄文で、壹與に告諭した。 |
| 帶方郡が、使者 「塞曹掾史」(辺境地部門長)張政(省略形を 「政」 という)らを 倭に派遣したのは、上記項目 5.34 の翌年の正始九年(西暦248年)のことで、 卑彌呼は、(倭暦の2倍年暦)129歳(2倍数)位で、既に、病床に就いていた ため、使者張政らは、一旦、難升米に拝仮(魏朝から見て、格下への拝謁)し、 「檄文」 を為して、告諭したが、 卑彌呼が死に、(倭暦の2倍年暦)13歳(2倍数)の壹與が、倭王になったとき、 改めて、「檄文」 で、壹與に告諭したのである。 「檄文」 の内容は省略したが、「黄幢」 の取扱いに関する次のようなことである。 ● 「黄幢」 は、地に倒さず、敵に取られてはならないこと。 ● 「黄幢」 により、魏軍の後ろ盾があることを示す以上、戦いに負けないこと。 ● 戦いが終結すれば、「黄幢」 は、帶方郡に返却すること。 女王卑彌呼が死んだのは、帶方郡の使者張政らが詔書・「黄幢」 をもたらした 正始九年(西暦248年)6月から、間もない頃のことである。 卑彌呼の死で、邪馬壹国女王兼倭王(卑彌呼)-摂政体制が崩れ、 伊都国王(男王)が、邪馬壹国王兼倭王に立って、内紛が起きたが、 鎮圧された同年 9月頃に、邪馬壹国女王兼倭王(壹與)-摂政体制に戻った。 使者張政らは、倭の滞在中に、卑彌呼の死直後の政争を目撃することになった。 | |
| 外交 ルール | ● 帶方郡は、倭へ賜物を送達する機会を使って、倭の動向を継続して査察する。 ● 帶方郡から 「黄幢」 等の送達が遅れ、魏朝の詔書の日付が古くなったときは、 帶方郡の使者が、「檄文」 等の文書を為して、日付を更新する。 |
| 項目 | 第3次朝貢外交 (西暦249年) |
| 5.36 | 壹與は、倭の大夫 「率善中郎將」 掖邪狗ら 20人を派遣して、(帶方郡の使者) 張政らを送還する便で、魏朝の宮廷に詣らせ、男女の生口 30人を献上し、 白珠 5,000孔・靑大句珠 2枚・異文雜錦 20匹を貢物とした。 |
| 上記項目 5.35 で、正始九年(西暦248年)に 「黄幢」 が送達されたため、 倭王壹與は、取り急ぎ、その翌年の正始十年(西暦249年)に、「黄幢」 の答礼上 表と倭王交代(卑彌呼⇒壹與)・政権継承・狗奴国征伐報告を兼ね、第3次朝貢 (予定の 2年遅れ)を、帶方郡の使者張政らを送還する便で、行なった。 なお、倭の使者による帶方郡の使者の送還は、今まで、倭の使者が倭王の答礼を 上表するときに併せていたが、今回のように、朝貢のときに併せたのは初めて。 壹與は、女王卑彌呼の存命中には、間に合わなかったが、 「黄幢」 は、効果を発揮し、今回の朝貢までに、狗奴国を滅ぼすことに成功した。 狗奴国の遺民は、奴婢になった者を除き、倭地の南方・東方の海上に、四散した。 今回の倭の使者・貢物は、「黄幢」 の答礼を含み、過去最大規模のものとなった。 また、今回の倭による緊急朝貢に対し、その後、 魏朝による賜物の下賜・送達、倭による答礼の上表・使者の送還等があるが、 上記項目 5.28~5.31 と同様であり、冗長になるため省略し、 「倭人の条」 における外交状況は、ここまでとした。 司馬懿は、この年(西暦249年)1月に、魏朝に対し、クーデターを起こした。 | |
| 外交 ルール | ● 倭王交代・政権継承等の魏朝への報告(朝貢)は、緊急を要する。 ● 新たな朝貢のときに、前回の答礼上表と使者送還を行なうことができる。 |
6.4 魏朝-倭の外交年表
◆上記項目 6.3 の魏朝外交ルールに沿って、年表に纏めた。
⤆郡使⤇ ⤆倭使⤇ [省略]
| 「倭人の条」 | 魏 朝 | 帶方郡 | 往 来 | 倭 | |||||||
| 項目 | 西暦年 | 太守 | 賜物 | 使者 | 使者 | 貢物 | 王 | ||||
| 5.28 5.29 | 238 (239) | 明帝 斉王 | 劉夏 | 賜物 ① | - | - | ⤆ | 朝貢 | 難升米 都市牛利 | 貢物 ① | 卑彌呼 |
| 5.30 | 240 | 斉王 | 弓遵 | 梯儁ら | 送還 賜物送達 | ⤇ ⤇ | - | 上記帰還 | - | ||
| 5.31 | (241) | - | 上記帰還 | - | ⤆ ⤆ | 送還 答礼上表 | 難升米ら | ||||
| - | (242) | - | - | ⤇ | - | 上記帰還 | |||||
| 5.32 | 243 | 賜物 ② | - | - | ⤆ | 朝貢 | 掖邪狗ら 8人 | 貢物 ② | |||
| - | (244) | 梯儁ら | 送還 賜物送達 | ⤇ ⤇ | - | 上記帰還 | - | ||||
| 5.33 | 245 | 黄幢 | 上記帰還 | - | ⤆ ⤆ | 送還 答礼上表 黄幢請願 | 難升米ら | ||||
| - | (246) | - | - | ⤇ | - | 上記帰還 | |||||
| 5.34 | 247 | 王頎 | - | - | ⤆ | 戦況説明 黄幢督促 | 載斯烏越ら | ||||
| 5.35 | (248) | 張政ら | 送還 黄幢送達 | ⤇ ⤇ | - | 上記帰還 | 壹與 | ||||
| 5.36 | (249) | 不明 | 賜物 ③ 不明 | 上記帰還 | - | ⤆ ⤆ | 送還 答礼上表 緊急朝貢 | 掖邪狗ら 20人 | 貢物 ③ | ||
| その後 | (250) | 斉王 | 不明 | 不明 | 送還 賜物送達 | ⤇ ⤇ | - | 上記帰還 | - | 壹與 | |
| (251) | - | 上記帰還 | - | ⤆ ⤆ | 送還 答礼上表 | 不明 | |||||
| (252) | - | - | ⤇ | - | 上記帰還 | ||||||
| 賜物(魏⤇) | (⤆倭)貢物 | ||
| ① | (詔書) (印綬) 「親魏倭王」 1、「率善中郎將」 1、 「率善校尉」 1、 (賜物) 絳地交龍錦 5匹、絳地縐粟罽 10張、 蒨絳 50匹、紺青 50匹 | ① | 男の生口 4人、女の生口 6人、 班布 2匹2丈 |
| (女王個人向け賜物) 紺地句文錦 3匹、 細班華罽 5張、白絹 50匹、金 8兩、 5尺刀 2口、銅鏡 100枚、 真珠・鈆丹 各50斤 | |||
| ② | (詔書)、(印綬) 「率善中郎將」 8、 (賜物) | ② | 生口、倭錦、絳靑縑、緜衣、丹、 木拊短弓、矢 |
| ③ | (不明) | ③ | 男女生口 30人、白珠 5,000孔、 靑大句珠 2枚、異文雜錦 20匹 |
★「5.『倭人の条』全文」 における戦略記事の考察は、下記項目 6.5~6.22 の通り。
6.5 「倭人の条」 に、戦略記事として、倭の地理・産物を記述した理由
◆「倭人の条」 における戦略記事(1,403字)が、次の通り、「倭人の条」 全体(2,040
字)の 68.8% であり、その中でも、倭の地理・産物関係の記事(632字+47字)が、
大半を占めているように、倭の地理・産物、すなわち、倭地への行程・倭の領域・国力
の調査結果をもって、魏朝の勢力を誇示するために、記述した。
| 「5.『倭人の条』」 における 戦略記事 | 字数 | 内訳比率 |
| 項目 5.1~5.13、5.26~5.27 地理関係(西暦241年) | 632字 | 31.0% |
| 項目 5.14~5.17 文化関係(西暦241年) | 352字 | 17.3% |
| 項目 5.18 産物関係(西暦241年) | 47字 | 2.3% |
| 項目 5.19~5.25 習俗関係(西暦241年) | 372字 | 18.2% |
| 戦略記事の合計 | 1,403字 | 68.8% |
| 外交記事の合計 | 637字 | 31.2% |
| 「倭人の条」 全体 | 2,040字 | 100.0% |
6.6 「倭人の条」に、倭の地理・産物以外に、倭の文化・習俗を追加した理由
◆上記項目 5.1~5.13、5.18、5.26~5.27 (地理・産物関係)のように、戦略記事
を記述したものの、更に、戦略的には、将来の倭の姿も見通す必要があるため、
その手掛りとして、項目 5.14~5.17、5.19~5.25 (文化・習俗関係)のように、
倭の文化レベル・統制・歴史について、追加した。
6.7 往路・復路の日程を、6月にした理由
● 年間で、6月は、昼間(日出⇒日没)の時間が最長で、昼間移動の日程に余裕が出る。
現代の観測では、海峡とその先に在る倭地の昼間(日出⇒日没)は、14時間20分。
● 年間で、6月は、海峡の各区間とも、海流の流速・流向の変動が少なく、操船し易い。
現代の JODC (日本海洋データセンター)の観測では、この海流(対馬海流)は、
下表の通り、0.2~0.3ノット の速さで、北東方向(流向 31~61度)に流れている。
(流速は、1ノット=1.852km/h、 流向は、北の方位を 0度とした時計回りの角度)
● 海峡の先に在る倭地の 6月は、雨期で川の水量が多く、川舟による水行ができる。
● 以後、帶方郡⇔倭の往路・復路の日程は、6月に設定することが、定着する。
| 海峡の区間 | 対馬海流の平均流速 | 平均流向 | ||||
| 6月 | 年間 | 6月 | 年間 | |||
| 狗邪韓国⇒對海国 | 30.6里/日夜 | 13.3km/24h | 0.3ノット | 0.3ノット | 31度 | 56度 |
| 對海国 ⇒一大国 | 20.5里/日夜 | 8.9km/24h | 0.2ノット | 0.3ノット | 61度 | 48度 |
| 一大国 ⇒末盧国 | 20.5里/日夜 | 8.9km/24h | 0.2ノット | 0.1ノット | 56度 | 153度 |
6.8 行程の方向決定に用いた 6月の東方基準(日出の方角)と方位の許容範囲
|
|
6.9 倭の地理上の数値と戸数に 5倍数を用い、倭での年数に 2倍数を用いた理由
● 外交の国数(項目 5.1)や下賜品・貢物の数量(項目 5.29・5.36)・使者の人数
(項目 5.32・5.36)については、外交記録や目録の通りとしたが、倭の地理上の
道里・大きさ・行程の所要日数(項目 5.2~5.10・5.13・5.26・5.27・5.35)
と戸数・家数について、5倍数を用いたのは、
西暦238年以降、魏朝の支配下になった韓や倭の領域の大きさを、過大に強調す
ることが、呉を牽制しつつ、魏朝の威光を内外に知らしめるためになるからであ
り、先に韓地チームによって行なわれた 5倍数表記を、当倭地チームも踏襲した。
● 倭での年数や倭人の年齢(項目 5.20・5.25・5.26・5.35)が 2倍数であるのは、
倭人が用いる倭暦が 「正歳」 でなく、春の耕作と秋の収穫で区切って年紀を決め
る 2倍年暦(魏暦 1年=倭暦 2年)であるためで、秦朝のとき、徐福が当地に長生
不老の霊薬を求めたとされているように、もとより、倭人は長寿とされていたの
で、倭人の言を尊重して、そのまま(倭暦)を筆録した。
6.10 魏代で用いた尺度 (魏代の 1里は、現代の単位に換算すれば、434.16m)
| 尺度 | 魏代 | 【参考】 唐代 | 魏代/唐代 |
| 分 | 0.002412 m | 0.00311 m | 0.78 |
| 寸 | 0.02412 m (10分) | 0.0311 m (10分) | 0.78 |
| 尺 | 0.2412 m (10寸) | 0.311 m (10寸) | 0.78 |
| 歩 | 1.4472 m (6尺) | 1.555 m (5尺) | 0.93 |
| 里 | 434.16 m (300歩) | 559.8 m (360歩) | 0.78 |
6.11 行程で使い分ける標準速度・速度比 (「D川舟水行」 の速度を 1.0 とした比)
| 行程区分 | 速度区分 | 標準速度 | 標準速度(m換算) | 速度比 |
| 海峡 | B 魏船渡海 | 200里/日夜 | 86.8km/24h | 4.0 |
| 韓地沿岸 | A 魏船水行 | 100里/日 | 43.4km/12h | 4.0 |
| 倭地内海 | F 倭船渡海 | 100里/日夜 | 43.4km/24h | 2.0 |
| 倭地沿岸 | G 倭船水行 | 50里/日 | 21.7km/12h | 2.0 |
| 倭地外海 | H 倭船船行 | 50里/日 | 21.7km/12h | 2.0 |
| 倭地 | D 川舟水行 | 25里/日 | 10.9km/12h | 1.0 |
| C 車駕陸行 | 40里/日 | 17.4km/12h | 1.6 | |
| E 輿 陸行 | 20里/日 | 8.7km/12h | 0.8 | |
| 【参考】 | 唐代川舟水行 | 60~70里/日 | 33.6~39.2km/12h | 1.0 |
| 唐代歩行陸行 | 50里/日 | 28.0km/12h | 0.71~0.83 |
6.12 上記項目 6.11 の標準速度で、「E輿陸行」/「D川舟水行」=0.8 とした理由
◆倭地における標準速度の 「E輿陸行」/「D川舟水行」=0.8 としたのは、
上記項目 6.11【参考】欄における速度の 「唐代歩行陸行」(50里/日)と、
「唐代川舟水行」(60~70里/日)との比(0.71~0.83)、に準じたためである。
そうすれば、倭地での次の各数値を、下記①~④のように、求めることができる。
● 「D川舟水行」 の標準速度≒25里/日
● 「E輿陸行」 の標準速度≒20里/日
● 「D川舟水行」 による 20日(5倍数)区間の道里=500里(5倍数)
● 「D川舟水行」 による 10日(5倍数)区間の道里=250里(5倍数)
● 「E輿陸行」 による 1月(29日)(5倍数)区間の道里=550里(5倍数)
①倭地における 「D川舟水行」(不彌国⇒投馬国⇒上陸地)と 「E輿 陸行」(上陸地
⇒邪馬壹国)の道里合計は、末盧国~邪馬壹国の 2,000餘里(5倍数)から、
末盧国~不彌国の 700里(5倍数)を差し引いた 1,300餘里(5倍数)である。
②この 1,300餘里(5倍数)を行くために、「D川舟水行」 で 30日(20日+10日)
(5倍数)と 「E輿 陸行」 で 1月(29日)(5倍数)かかるとされている。
③そこで、「D川舟水行」 の標準速度をD(里/日)、「E輿 陸行」 の標準速度をE
(里/日)とすると、E/D=0.8 と 30D+29E=1300 の 2式ができる。
この 2式から D,E を求めると、それぞれ、D≒25(里/日)、E≒20(里/日)。
④D,E から、不彌国~邪馬壹国の 1,300餘里(5倍数)=260里(基数) の内、
「D川舟水行」 の 20日(5倍数)=4日(基数) の区間(不彌国⇒投馬国)が、
500里(5倍数)=100里(基数)、
10日(5倍数)=2日(基数) の区間(投馬国⇒上陸地)が、
250里(5倍数)=50里(基数)、
残りの 「E輿 陸行」 の 29日(魏暦 1カ月)(5倍数)=6日(基数) の区間
(上陸地⇒邪馬壹国)が、550里(5倍数)=110里(基数) となる。
6.13 各行程における所要 「日数」 とその速度区分
| 行程 | 5倍数 | 基数 | 速度区分 | ||
| 道里 | 日数 | 道里 | 日数 | ||
| 帶方郡 ⇒ 狗邪韓国 | 7,000餘里 | 70日 | 1,400餘里 | 14日 | A魏船水行 |
| 狗邪韓国⇒ 對海国 | 1,000餘里 | 5日 | 200餘里 | 1日 | B魏船渡海 |
| 對海国 ⇒ 一大国 | 1,000餘里 | 5日 | 200餘里 | 1日 | |
| 一大国 ⇒ 末盧国 | 1,000餘里 | 5日 | 200餘里 | 1日 | |
| 末盧国 ⇒ 伊都国 | 500 里 | 12.5日 | 100 里 | 2.5日 | C車駕陸行 |
| 伊都国 ⇒ 奴国 | 100 里 | 2.5日 | 20 里 | 0.5日 | |
| 奴国 ⇒ 不彌国 | 100 里 | 2.5日 | 20 里 | 0.5日 | |
| 不彌国 ⇒ 投馬国 | 500 里 | 20日 | 100 里 | 4日 | D川舟水行 |
| 投馬国 ⇒ 上陸地 | 250 里 | 10日 | 50 里 | 2日 | |
| 上陸地 ⇒ 邪馬壹国 | 550 里 | 1月(29日) | 110 里 | 6日 | E輿 陸行 |
| 邪馬壹国⇒旁国21国 | 3,000餘里 | 5月 | 600餘里 | 29日 | |
| 旁国21国⇒邪馬壹国 | 3,000餘里 | 5月 | 600餘里 | 29日 | |
| 邪馬壹国⇒ 倭種の国 | 1,000餘里 | 10日 | 200餘里 | 2日 | F倭船渡海 |
| 倭種の国⇒ 侏儒国 | 4,000餘里 | 70日 | 800餘里 | 14日 | F+G倭船 渡海・水行 |
| 侏儒国 ⇒ 邪馬壹国 | 4,000餘里 | 70日 | 800餘里 | 14日 | |
| 侏儒国⇒裸国・黒齒国 | 9,000餘里 | 1年(180日) | 1,800餘里 | 36日 | H倭船船行 |
| 邪馬壹国⇒ 伊都国 | 3,000餘里 | 60日 | 600餘里 | 12日 | G倭船水行 |
| 伊都国 ⇒ 一大国 | 1,000餘里 | 5日 | 200餘里 | 1日 | B魏船渡海 |
| 一大国 ⇒ 對海国 | 1,000餘里 | 5日 | 200餘里 | 1日 | |
| 對海国 ⇒ 狗邪韓国 | 1,000餘里 | 5日 | 200餘里 | 1日 | |
| 狗邪韓国⇒ 帶方郡 | 7,000餘里 | 70日 | 1,400餘里 | 14日 | A魏船水行 |
6.14 倭地(不彌国⇒投馬国⇒上陸地)で、「D川舟水行」 を行なう理由
● 現代の筑紫平野の在る地は、約10,000年前には、有明海に繋がる古筑紫海であ
ったが、筑後川が運んできた土砂により次第に陸化して、約2,200年前には、北野
地区は、筑後川が流入する湖となり、筑後地区は、有明海が湾入する入江となった。
その後、筑後川が久留米・鳥栖(来る水通す)の間の山塊を越えて、筑後地区に流れ
るようになり、約2,000年前の北野地区では、湖は消失したが、筑後川がよく氾濫
して湿原(牟田)となり、その水系を、水稲栽培や川舟往来に利用していた。
なお、現代の標高は、久留米(h10m)・筑紫野(h33m)・浮羽(h46m)である。
● 「D川舟水行」 の内、20日(5倍数)=4日(基数) の区間(不彌国⇒投馬国)の行程
では、現代の地名で言えば、博多湾に流れる御笠川の支流の鷺田川を遡上し、大宰
府付近に在る低地分水嶺(h40m)を越え、その後、筑後川の支流である宝満川の
支流山口川から、北野地区に在る筑後川の湿原の水系を、辿ることができた。
● 上記低地分水嶺では、鷺田川から山口川へ川舟を乗り換えるか、川の水量が多い
雨期(6月)であれば、鷺田川と山口川とを結ぶ水門運河で直行することもできた。
● 「D川舟水行」 の内、10日(5倍数)=2日(基数) の区間(投馬国⇒上陸地)の行程
では、筑後川の上流に在る玖珠川分岐点まで、自力・曳航で遡ることができた。
6.15 倭地の外海(侏儒国⇒裸国・黒齒国)を、「H倭船船行」 で行く可能性
● 倭地の外海には海流があり、倭地の南側には、現代の名称で黒潮(日本海流)が九
州・四国の南岸沿いを流れている。
この黒潮は、紀伊半島沖からは、季節によって異る蛇行コースをとり、どの蛇行
コースも伊豆諸島の海域を通るとされ、裸国・黒齒国は、この伊豆諸島にある。
倭人によれば、「東南船行一年可至」、東南方向に、(倭暦の2倍年暦)船行 1年
(行程日数の5倍数)=(魏暦)180日(5倍数)=36日(基数) 程で行けるらしい。
● しかし、この海流に乗る遠洋ルートでの帰りは、海流に逆らうことになって、
難航が予想されるため、この視察では行かなかったが、現代の JODC (日本海
洋データセンター)の観測では、下表の通り、黒潮(日本海流)は、0.8~1.2 ノット
(1 ノット=1.852km/h)の流速があり、「H倭船船行」 の標準速度(50里/日)に
匹敵するので、海流に逆行する遠洋ルートによる帰還は、不可能である。
| 海域 | 日本海流の平均流速 | |||
| 宮崎・高知沖 | 1.2 ノット | 26.7km/12h | 61.5里/日 | 123.0里/日夜 |
| 八丈島 付近 | 0.8 ノット | 17.8km/12h | 41.0里/日 | 82.0里/日夜 |
るとすれば、倭地が更に東方に伸びている沿岸ルートが、存在することになり、
そのルートを利用して、「H倭船船行」 の標準速度(50里/日) で行くとすると、
(倭暦)船行 1年(行程日数の5倍数)=(魏暦)180日(5倍数)=36日(基数)
では、9,000餘里(5倍数)=1,800餘里(基数)⇒781.5km となり、
侏儒国(高知県須崎)から東南方向、781.5km の所は、伊豆諸島の八丈島付近。
6.16 倭地への行程で用いた道標としてのランドマーク
◆帶方郡⇔倭地の往復全行程には、倭人のガイドが用いる道標として、遠方からで
も目視できるランドマークがあり、これを辿れば、帶方郡⇔倭地を往復できる。
特に、韓地より遠方の倭地では、道標としてのランドマークが、不可欠である。
◆各行程における始点⇒終点ランドマーク間の総直線距離と方向を下表に示す。
①~⑱各行程の下段に、ランドマークの現代の地名と地図上距離・方向を示す。
なお、行程⑧⑨⑩⑮の道里は、「倭人の条」 に記載された所要日数から計算した。
また、行程⑬の道里は、行程⑭の道里と同じとし、更に、行程⑮(侏儒国⇒裸国・
黒齒国)と行程⑯(この視察の復路)を追加した。
すべての行程の道里・方向(山域の行程⑨⑩の方向以外)は、現代の地図と一致。
山域の行程⑨⑩の方向が、「南」 の許容範囲から 「東南」 に、少し(19度)ずれて
いるのは、その山域の視界が狭く、東方基準(日出の方角)を定め難いためである。
| 行程 | 道里(5倍数) | 道里(基数) | 道里(m換算) | 方向 |
| ①帶方郡 ⇒ 狗邪韓国 | 7,000餘里 | 1,400餘里 | 607.8km | 南 |
| ア.摩尼山 イ.女貴山 ウ.加羅山 | 581.8km | 南 | ||
| ②狗邪韓国⇒ 對海国 | 1,000餘里 | 200餘里 | 86.8km | 南 |
| ウ.加羅山 エ.白嶽 | 79.4km | 南 | ||
| ③對海国 ⇒ 一大国 | 1,000餘里 | 200餘里 | 86.8km | 南 |
| エ.白嶽 オ.矢立山 カ.岳の辻 | 75.8km | 南 | ||
| ④一大国 ⇒ 末盧国 | 1,000餘里 | 200餘里 | 86.8km | 南 |
| カ.岳の辻 キ.番所ノ辻 ク.加也山 ケ.衣干山 | 80.5km | 南 | ||
| ⑤末盧国 ⇒ 伊都国 | 500 里 | 100 里 | 43.4km | 東南 |
| ケ.衣干山 コ.十坊山 サ.城山 シ.王丸山 ス.荒平山 | 40.9km | 東南 | ||
| ⑥伊都国 ⇒ 奴国 | 100 里 | 20 里 | 8.7km | 東南 |
| ス.荒平山 セ.観音山 | 8.7km | 東南 | ||
| ⑦奴国 ⇒ 不彌国 | 100 里 | 20 里 | 8.7km | 東 |
| セ.観音山 ソ.井野山 | 7.6km | 東 | ||
| ⑧不彌国 ⇒ 投馬国 | 500 里 | 100 里 | 43.4km | 南 |
| ソ.井野山 タ.基山 チ.城山 ツ.田島 テ.高山 | 40.1km | 南 | ||
| ⑨投馬国 ⇒ 上陸地 | 250 里 | 50 里 | 21.7km | 南 |
| テ.高山 ト.高井岳 ナ.岩松ケ峰 | 20.6km | 東南 | ||
| ⑩上陸地 ⇒ 邪馬壹国 | 550 里 | 110 里 | 47.8km | 南 |
| ナ.岩松ケ峰 ニ.鏡山 ヌ.伐株山 ネ.青野山 ノ.野稲岳 ハ.星岳 ヒ.高長谷山 | 48.4km | 東南 | ||
| 帶方郡 ⇒ 邪馬壹国 | 12,000餘里 | 2,400餘里 | 1,042.0km | 東南 |
| ①~⑩の合計 | 983.8km | 東南 | ||
| ⑫邪馬壹国⇒ 倭種の国 | 1,000餘里 | 200餘里 | 86.8km | 東 |
| ム.高崎山 メ.皇座山 | 88.0km | 東 | ||
| ⑬倭種の国⇒ 侏儒国 | (4,000餘里) | (800餘里) | (347.3km) | 南 |
| メ.皇座山 モ.雨乞山 ヤ.佐田岬 ユ.飯之山 ヨ.由良岬 ラ.沖の島 リ.足摺岬 ル.法印山 | 322.0km | 南 | ||
| ⑭侏儒国 ⇒ 邪馬壹国 | 4,000餘里 | 800餘里 | 347.3km | 西北 |
| ル.法印山 リ.足摺岬 ラ.沖の島 ヨ.由良岬 ユ.飯之山 ヤ.佐田岬 レ.関崎 ム.高崎山 | 287.7km | 西北 | ||
| ⑮侏儒国⇒裸国・黒齒国 | 9,000餘里 | 1,800餘里 | 781.5km | 東南 |
| ル.法印山 a.室戸岬 b.潮岬 c.大王崎 d.御前崎 e.石廊崎 f.雄山(三宅島) g.三原山(八丈島) | 745.9km | 東南 | ||
| ⑯邪馬壹国⇒⇒ 帶方郡 | (13,000餘里) | (2,600餘里) | (1,128.8km) | 西北 |
| ム.高崎山 h.小城山 i.矢筈岳(姫島) j.國見山 k.砂利山 l.御嶽(大島) m.志賀島 n.長垂山 ク.加也山 サ.城山 キ.番所ノ辻 カ.岳の辻 +行程③②①(基数1,800餘里) | 1,111.9km | 西北 | ||
| ⑰對海国 (方の一辺長) | 400餘里 | 80餘里 | 34.7km | - |
| 対馬下県(南島)の南北長さ (神崎⇔郷崎) | 27.6km | 南北 | ||
| ⑱一大国 (方の一辺長) | 300 里 | 60 里 | 26.0km | - |
| 壱岐の南北長さ (海豚鼻⇔コーゴ岬) | 17.7km | 南北 | ||
| 韓地 (方の一辺長) | 4,000餘里 | 800餘里 | 347.3km | - |
| 大韓民国の南北長さ (女貴山⇔摩尼山) | 358.5km | 南北 | ||
◆上表の主要ランドマーク付近の地域情報
| ランドマーク | 付近の地域情報 (現代の地名による) | ||
| ア.摩尼山 | 帶方郡 | 郡治・港 | 開城市 (朝鮮民主主義人民共和国) |
| ウ.加羅山 | 狗邪韓国 | 国都・港 | 巨済市南洞里 (大韓民国) |
| エ.白嶽 | 對海国 | 国都・港 | 対馬市厳原町小茂田 |
| カ.岳の辻 | 一大国 | 国都・港 | 壱岐市芦辺町~石田町 |
| ケ.衣干山 | 末盧国 | 国都・港 | 唐津市菜畑 |
| サ.城山 | 伊都国 | 水道西 | 糸島市船越湾 (糸島水道西口) |
| ス.荒平山 | 国都・河岸 | 福岡市早良区早良 (室見川) | |
| n.長垂山 | 港・水道東 | 福岡市西区今津湾 (糸島水道東口) | |
| セ.観音山 | 奴国 | 国都・河岸 | 筑紫郡那珂川町王塚台 (那珂川) |
| ソ.井野山 | 不彌国 | 国都 | 糟屋郡宇美町宇美 |
| 河岸 | 大野城市御笠川 (御笠川) | ||
| テ.高山 | 投馬国 | 国都・河岸 | うきは市浮羽町 (筑後川) |
| ナ.岩松ケ峰 | 邪馬壹国 | 河岸 | 日田市天瀬町馬原 (玖珠川) |
| ハ.星岳 | 国都・神殿 | 由布市庄内町渕山井 (大分川の河岸段丘) | |
| ヒ.高長谷山 | 河岸 | 大分市国分~由布市挾間町 (大分川) | |
| ム.高崎山 | 港 | 大分市王子港町 | |
| ヘ.鏡山 | 斯馬国 | 国都・港 | 延岡市島浦町 |
| ホ.鰐塚山 | 奴国分国 | 国都・港 | 宮崎市・日南市 |
| マ.高畑山 | 奴国と狗奴国の国境地 | 日南市 (狗奴国方面を山上より遠望) | |
| ミ.高隈山 | 狗奴国 | 国都・河岸 | 鹿屋市 (肝属川) |
| メ.皇座山 | 倭種の国 | 国都・港 | 柳井市 (船上より遠望) |
| ル.法印山 | 侏儒国 | 国都・港 | 須崎市 (船上より遠望) |
| g.三原山 (八丈島) | 裸国 | 国都・港 | 八丈島 (伝聞) |
| 黒齒国 | 国都・港 | 八丈小島 (伝聞) | |
| 上記ランドマーク 「ハ.星岳」 から見た邪馬壹国の都の全景(Google Earthの画像) 南方向に、大分川の河岸段丘上にある邪馬壹国の都(山井)・神殿(白十字点)を望む。 都のある大分川中流部は、深く侵食した峡谷の形態で、天然の要害になっている。 ![]() | |||
6.17 上記項目 6.16 の行程・ランドマークを辿る (「白地図 KenMap」 の画像編集)
◆行程①⇒狗邪韓国②⇒對海国③⇒一大国 ◆行程④⇒末盧国
![]() |
![]() ◆行程⑤⇒伊都国⑥⇒奴国⑦⇒不彌国 ![]() |
![]() |
| ア.摩尼山(468m) | イ.女貴山(459m) | ウ.加羅山(585m) | エ.白嶽(518m) |
| オ.矢立山(649m) | カ.岳の辻(213m) | キ.番所ノ辻(237m) | ク.加也山(365m) |
| ケ.衣干山(163m) | コ.十坊山(535m) | サ.城山(123m) | シ.王丸山(453m) |
| ス.荒平山(395m) | セ.観音山(132m) | ソ.井野山(236m) | タ.基山(404m) |
| チ.城山(131m) | ツ.田島(27m) | テ.高山(190m) | ト.高井岳(404m) |
| ナ.岩松ケ峰(286m) | ニ.鏡山(675m) | ヌ.伐株山(685m) | ネ.青野山(850m) |
| ノ.野稲岳(1,038m) | ハ.星岳(729m) | ヒ.高長谷山(237m) | ム.高崎山(628m) |
![]() |
| ヒ.高長谷山(237m) | フ.烏岳(330m) | ヘ.鏡山(645m) | ホ.鰐塚山(1,118m) |
| マ.高畑山(518m) | ミ.高隈山(1,236m) | ム.高崎山(628m) | メ.皇座山(527m) |
| モ.雨乞山(499m) | ヤ.佐田岬 | ユ.飯之山(321m) | ヨ.由良岬 |
| ラ.妹背山(404m) | リ.白皇山(458m) | ル.法印山(280m) | レ.遠見山(172m) |
| a.室戸岬 | b.潮岬 | c.大王崎 | d.御前崎 |
| e.石廊崎 | f.雄山(775m) | g.三原山(701m) |
![]() |
| ヒ.高長谷山(237m) | ム.高崎山(628m) | h.小城山(246m) | i.矢筈岳(267m) |
| j.國見山(638m) | k.砂利山(253m) | l.御嶽(215m) | m.志賀島(169m) |
| n.長垂山(85m) | ク.加也山(365m) | サ.城山(123m) | キ.番所ノ辻(237m) |
| カ.岳の辻(213m) | オ.矢立山(649m) | ||
| ケ.衣干山(163m) | コ.十坊山(535m) | シ.王丸山(453m) | ス.荒平山(395m) |
| セ.観音山(132m) | ソ.井野山(236m) | タ.基山(404m) | チ.城山(131m) |
| ツ.田島(27m) | テ.高山(190m) | ト.高井岳(404m) | ナ.岩松ケ峰(286m) |
| ニ.鏡山(675m) | ヌ.伐株山(685m) | ネ.青野山(850m) | ノ.野稲岳(1,038m) |
| ハ.星岳(729m) | フ.烏岳(330m) | メ.皇座山(527m) | レ.遠見山(172m) |
6.18 主体となる倭地 (魏・韓地に比べて温暖で、大きさは、洲島の集まりで韓地程度)
● 倭人は、韓地の南海岸にも居住しているが、多くは、帶方郡の東南の大海の中に居
て、国でいえば、韓地の南海岸近海に在る狗邪韓国、海峡に在る對海国・一大国、倭
地に在る末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬壹国・旁国21国等からなる倭
の 30国、そしてこれ以外に、狗奴国・侏儒国・倭種の国、更に、隔地に在る裸国・黒
齒国にも居住しており、合計 35国に亘る。
● この視察の主体となる倭地を、「倭地絶在海中洲島之上」 としたのは、狗邪韓国・
對海国・一大国のような、山が海面から突出したような 「山島」 とは異り、その先
の離れた海中に在って、末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国(現代の筑紫平野)・
邪馬壹国(現代の大分平野)・旁国21国(現代の熊本平野・宮崎平野)等を実際に
見た結果、海流・川流等の陸化作用により、土砂が堆積した洲のような 「洲島」 の
印象を持ったからである。
なお、倭人の国でも、裸国・黒齒国は、狗邪韓国・對海国・一大国と同様、「山島」 の
国であると聞いているため、倭地に含めない。
● 倭地の大きさを知ることは、この視察の課題であり、その倭地の大きさの
「周旋可五千餘里」(5倍数)とは、実際に視察した範囲から推定した結果であって、
直径 5,000餘里(5倍数)=1,000餘里(基数)⇒434.2km 程で円状に旋回し
た周旋範囲内を意味し、それは、
「方可四百餘里」(5倍数)のような、
一辺 400餘里(5倍数)=80餘里(基数)⇒34.7km 程の正方範囲内の對海国、
「方可三百里」(5倍数)のような、
一辺 300里(5倍数)=60里(基数)⇒26.0km 程の正方範囲内の一大国、
に比べて、遥かに広大で、
「方可四千餘里」(5倍数)のような、
一辺 4,000餘里(5倍数)=800餘里(基数)⇒347.3km 程の正方範囲内の
韓地と同程度の大きさである。
● 倭地の大きさを、同程度の大きさの韓地の 「方可四千餘里」(5倍数)のように、
表記せず、「周旋可五千餘里」(5倍数)のように、表記したのは、
末盧国から邪馬壹国までの道里、2,000餘里(5倍数)のほか、
邪馬壹国の南に在る旁国21国、更に、その南に在る狗奴国、
また、邪馬壹国の東へ渡海、1,000餘里(5倍数)に在る倭種の国、
その南に在る侏儒国、等を倭地に含めると、
「洲島」 が、切れたり連なったり、「或絶或連」 する倭地の形状は、
内海を囲む周旋状(円状)であり、方状ではないからである。
● 従って、海峡の先に在る倭地は、直径 5,000餘里(5倍数)=1,000餘里(基数)
⇒434.2km 程で旋回した周旋範囲内、「周旋可五千餘里」(5倍数)の大きさで、
帶方郡から、12,000餘里(5倍数)=2,400餘里(基数)⇒1042.0km の所に
ある邪馬壹国を含み、北緯30度・東経120度に在る會稽(現代の中華人民共和国
淅江省紹興市)の東方に位置し(「在會稽東治之東」)、魏・韓地に比べて温暖であ
ること等から、結局、倭地の範囲は、ほぼ、北緯31~34度・東経130~133度に
在る現代の九州地方と中国・四国地方の一部を含む地域を指すことになる。
なお、倭地の地図上の中心を、邪馬壹国南限に在る大崩山(1,644m)付近とした。
◆韓地と倭地の比較図 (「白地図 KenMap」 の画像編集)
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6.19 倭の範囲 (倭の戸数は、韓と同程度)
● 倭とは、韓地の南海岸近海に在る狗邪韓国、海峡に在る對海国・一大国、倭地に在
る末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬壹国・旁国21国の合計 30国の総称。
● 倭の北限は、狗邪韓国、南限は、旁国21国の奴国(奴国分国)である。
● 倭の狗邪韓国~邪馬壹国の主要 9国だけで、戸数合計は、148,000餘戸(5倍数)
=29,600餘戸(基数) であり、韓の戸数合計、140,000~150,000餘戸(5倍
数)=28,000~30,000餘戸(基数) と同程度である。
倭の人口としては、戸数(住居数)の 5倍(5人/戸)程度であるので、上記戸数合計、
148,000餘戸(5倍数)=29,600餘戸(基数)⇒148,000餘人 以上が、見込め、
その略半数が、生産力になると、推定できる。
なお、倭で、身分の低い人でも 2~3人の婦人があるのは、壮年男子が戦死するた
めであり、自分の妻が居る 2~3戸を巡る妻問婚の形を採る。
● 戸数が住居数を示すのに対し、一大国や不彌国の家数は、兵役等の賦役で召集さ
れた人の宿舎数を示しており、その人は、出身国の戸数中に含まれているが、家の
収容人数は、「2.1 時代背景」 の辰韓・弁韓の例(10戸/家)からみて、50人/家程。
従って、倭の兵員数としては、一大国の 3,000許家(5倍数)=600許家(基数)と
不彌国の 1,000餘家(5倍数)=200餘家(基数) との合計、4,000餘家(5倍数)
=800餘家(基数)⇒40,000餘人 を見込むことができる。
| 国名 | 領域 | 推定人口(人数) | 大きさ(m換算) | |||
| 狗邪韓国 (弁辰狗邪国) | 韓地 「山島」 | 倭 人 居 住 地 | 北限 倭 南限 | 辰韓・弁韓24国の 平均 2,000餘人 | 韓地は 一辺 347.3km方状 | |
| 對海国 | 海峡 「山島」 | 1,000餘人 | 一辺 34.7km方状 | |||
| 一大国 | (兵員 30,000許人) | 一辺 26.0km方状 | ||||
| 末盧国 | 倭地 「洲島」 | 4,000餘人 | 倭地は 直径 434.2km円状 | |||
| 伊都国 | 1,000餘人 | |||||
| 奴国 | 20,000餘人 | |||||
| 不彌国 | (兵員 10,000餘人) | |||||
| 投馬国 | 50,000餘人 | |||||
| 邪馬壹国 | 70,000餘人 | |||||
| 旁 国 21 国 | 斯馬国 | 不明 | ||||
| 已百支国 | ||||||
| 伊邪国 | ||||||
| 都支国 | ||||||
| 彌奴国 | ||||||
| 好古都国 | ||||||
| 不呼国 | ||||||
| 姐奴国 | ||||||
| 對蘇国 | ||||||
| 蘇奴国 | ||||||
| 呼邑国 | ||||||
| 華奴蘇奴国 | ||||||
| 鬼国 | ||||||
| 爲吾国 | ||||||
| 鬼奴国 | ||||||
| 邪馬国 | ||||||
| 躬臣国 | ||||||
| 巴利国 | ||||||
| 支惟国 | ||||||
| 烏奴国 | ||||||
| 奴国分国 | ||||||
| 狗奴国 | - | |||||
| 倭種の国 | ||||||
| 侏儒国 | ||||||
| 裸国 | 隔地 「山島」 | 遠過ぎるため、未調査 東南船行 781.5km | ||||
| 黒齒国 | ||||||
| 合計 | 35国 | 30国 | 148,000餘人以上 (兵員 40,000餘人) | |||
6.20 「倭人の条」 にある各国の推定地
◆各国の位置を、後世の地域名(「和名類聚抄」 の国名等)に対応させると、次の通り。
|
|
◆倭地内各国の領域図 (「白地図 KenMap」 の画像編集)
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◆倭地内旁国の詳細図 (矢印は、順次、陸路視察の方向を示す)
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◆倭では、各国の名付けに、 ヨ (四)以外の倭数が、用いられたようである。
ヒ (一)、フ (二)、ミ (三)、イ (五)、ム (六)、ナ (七)、ヤ (八)、コ (九)、ト (十)
| 国名 | 由来 | 地名変化 | 現代の名残地 |
| 狗邪韓国 | コヤ (九屋) | カヤ (伽耶) | コジェ (大韓民国巨済市) |
| 對海国 | トハナ (十端) | ツシマ (津島) | ツシマ (対馬市) |
| 一大国 | ヒキ (一城) | イキ (壱岐) | イキ (壱岐市) |
| 末盧国 | ムウラ (六浦) | マツラ (松浦) | マツウラ (唐津市松浦川) |
| 伊都国 | イツ (五津) | イト (委土) | イト (糸島市怡土) |
| 奴国 | ナカワ (七川) | ナカワ (那川) | ナカガワ (那珂川町) |
| 不彌国 | フミ (二水) | ウミ (湖) | ウミ (宇美町) |
| 投馬国 | トマ (十海) | トマ (苫) ⇒ ツマ (妻) | ツマ (筑後市下妻) |
| 邪馬壹国 | ヤマヒ (八幣) | ヤマヒ (山日) | ヤマイ (庄内町渕山井) |
| 斯馬国 | ヒシマ (一島) | ヒシマ (菱島) ⇒ シマ (島) | シマウラ (延岡市島浦町) |
| 已百支国 | イハキ (五杷木) | イワワキ (岩脇) | イワワキ (日向市平岩岩脇) |
| 伊邪国 | イヤ (五矢) | イワヤ (岩屋) | イワイ (日之影町岩井川) |
| 都支国 | トツキ (十槻) | ツキ (槻) ⇒ タカチ (高千) | タカチホ (高千穂町) |
| 彌奴国 | ミノ (三野) | サンノ (三野) | サンノ (一の宮町三野) |
| 好古都国 | ヤキツ (八木津) | アキツ (秋津) | アキタ (秋津町秋田) |
| 不呼国 | フコ (二児) | ウコ (鵜児) | ウト (宇土市) |
| 姐奴国 | ミサノ (三狭野) | ミサノ (美狭野) | サノ (東陽町北差野) |
| 對蘇国 | ヤツス (八津洲) | ヤシラス (八白洲) | ヤツシロ (八代市) |
| 蘇奴国 | ナスノ (七洲野) | ナカスノ (中洲野) | ナカゾノ (二見本町中園) |
| 呼邑国 | コユ (九湯) | クマユ (熊湯) | クマ (球磨村) |
| 華奴蘇奴国 | ナカソノ (七鹿苑) | カナソノ (神苑) | コウゾノ (山江村神園) |
| 鬼国 | ヒキ (一木) | ヒキエ (挽枝) | キノエ (錦町木上) |
| 爲吾国 | フイ (二井) | ウエ (上) | ウエ (あさぎり町上) |
| 鬼奴国 | トキノ (十木野) | トリキ (取木) | タラギ (多良木町) |
| 邪馬国 | ヤマ (八間) | ヤマ (山) ⇒ ヤマユ (山湯) | ユマエ (湯前町) |
| 躬臣国 | コホシ (九星) | コシ (越) ⇒ コシノ (越野) | コシノオ (西米良村越野尾) |
| 巴利国 | ヤハリ (八張) | ハル (原) | ハルムタ (西都市原無田) |
| 支惟国 | ヒィヒ (一樋) | ヒキヒ (引樋) ⇒ カケイ (樋) | カコイ (西都市上三財囲) |
| 烏奴国 | ムノ (六野) | ウリノ (烏入野) | イリノ (綾町入野) |
| 奴国分国 | ナカワ (七川) | ナカワ (那川) ⇒ ナカ (中) | ナカ (佐土原町東上那珂) |
| 狗奴国 | コノ (九野) | カノ (鹿野) | カノヤ (鹿屋市) |
| 倭種の国 | ヤナ (八魚) | ヤナ (簗) ⇒ ヤナイ (簗網) | ヤナイ (柳井市) |
| 侏儒国 | イスズ(五鈴) | スズ(鈴) ⇒ スズサキ (鈴前) | スサキ (須崎市) |
| 裸国 | ミハラ (三原) | ミハラミヤタケ (三原御八丈) | ハチジョウ (八丈島) |
| 黒齒国 | コシマ (九島) | コジマ (小島) | コジマ (八丈小島) |
◆各国の役割・特徴は、次の通り。
| 国名 | 各国の役割・特徴 (現代の地名を含む) |
| 狗邪韓国 | 巨済島の漁業、林業・造船、韓地・倭地との交易、韓地進出基地 |
| 對海国 | 対馬・浅茅湾の漁業、林業・造船、韓地・倭地との交易、軍港 |
| 一大国 | 壱岐の漁業、林業・造船、韓地・倭地との交易、鍛冶、伊都国水軍基地 |
| 末盧国 | 玄界灘の漁業、林業・造船、唐津平野の農業、製陶、軍港 |
| 伊都国 | 玄界灘の漁業、糸島水道通行・入出国・輸出入の管理、軍港 |
| 奴国 | 博多湾の漁業、林業・造船、福岡平野の農業、韓・魏との交易、鍛冶 |
| 不彌国 | 玄界灘と有明海を結ぶ川・運河の通行・物流の管理、奴国陸軍基地 |
| 投馬国 | 有明海・天草灘の漁業、筑紫平野・菊池平野の農業、倭地食糧センタ |
| 邪馬壹国 | 響灘・周防灘・豊後水道の漁業、大分平野の農業、瀬戸内方面の交易 |
| 旁国21国 | 八代海・日向灘の漁業、林業・造船、熊本平野・宮崎平野等の農業 |
| 狗奴国 | 東シナ海の漁業、林業・造船、肝属平野の農業、琉球・呉との交易 |
| 倭種の国 | 周防灘・伊予灘・安芸灘の漁業、林業・造船、瀬戸内物流センタ |
| 侏儒国 | 土佐湾・太平洋の漁業、狩猟・林業・造船、高知平野の農業 |
| 裸国・黒齒国 | 伊豆諸島の漁業、林業・造船、海産物加工、伊豆諸島の交易 |
6.21 倭のシステムのまとめ
◆文化の要点 (倭の文化水準は、魏より低く、呉支配の儋耳・朱崖と同程度)
● 海峡に在る對海国・一大国の倭人は、「南北市糴」 により、渡海・操船技術に長じる。
⇒倭人の船員は、委国・委奴由来の伊都国水軍一族。
● 倭の地に牛・馬がいないので、移動手段に使えない。
⇒貴人の陸路移動には、人力による車駕・輿を使う。
● 倭には、鉄・銅の鉱山はなく、水銀が採れるが、産物について、魏に無い物はない。
⇒鉄は、韓地(弁辰)から輸入、水銀は、倭地(邪馬壹国都に近い丹生)で採掘。
奴隷制社会により、労働力が増加して生産規模・分業を拡大し、鉱業が発達した。
● 倭の武器の矛・盾・鏃は、既に鉄製であるが、弓矢の構造は、魏と異る。
⇒矢を射ると消耗の多い鏃が、既に鉄製であることは、豊富な鉄資源が確保され
ていることの証であり、鉄製の豊富な倭の兵器は、狗奴国の兵力を上回っている。
● 諸々の文化水準は、魏より低く、呉支配(西暦238年~)の儋耳・朱崖と同程度。
⇒儋耳・朱崖(現代の中華人民共和国の海南島)が、呉支配になった西暦238年は、
公孫氏の帶方郡が、魏朝支配になった年。
● 倭暦は、「正歳」 でなく、春の耕作と秋の収穫で区切って、年紀を決める 2倍年暦。
⇒「正歳」 を、春分~秋分の耕作期、秋分~春分の収穫・争奪期の各 1年に分ける。
◆統制の要点 (共立された女王には、世継ぎがないため、死後、内紛が起きる可能性大)
● 伊都国には、代々、邪馬壹国に従属する王がいる。
⇒伊都国が女王国(邪馬壹国)に従属する以前は、伊都国王主導の伊都国王-奴国
女王(奴国女王⇒邪馬壹国女王)体制で、運営されていた。
● 邪馬壹国以北に、行政官 「大官」・「副」 を置き、邪馬壹国・伊都国以外に国王なし。
⇒伊都国王は、倭の男王系統、邪馬壹国王は、倭の女王系統。
● 海を渡って中国へ詣るには、倭地では、残った一族の中から男の人質を取る。
⇒往く者が、災難を回避して、期待を裏切らず事を運び帰還を果たすようにする
ためであるが、往く者が、「下戸」 のような身分の低い人の場合ではない。
● 身分の低い人は、貴人に対して礼儀正しい。
⇒「大人」(国の貴人)、「下戸」(身分の低い人)、「奴婢」(非人)の身分尊卑あり。
● 罪人の妻子・家族・一族を奴婢として、没収する連座制により、倭の治安は良い。
⇒「下戸」(身分の低い人)の罪人を、「奴婢」(非人)として、国が没収する。
● 税として、租(収穫物)や賦役(兵役)がある。
⇒税を負担するのは、「下戸」(身分の低い人)である。
● 市が立つ所に、税務官の 「大倭」 を置いて、租税から漏れる交易を取り締まる。
⇒武器・道具・原材料・衣服・布・装身具・宝石・嗜好品・密輸品の交易を監視する。
● 邪馬壹国以北には、検察将軍の 「一大率」 を順に派遣して、諸国の検察を行なう。
⇒諸国の戦争・反乱・殺人・窃盗・訴訟・脱税等の検察と地方官の査察を行なう。
● 「一大率」 は、普段は、伊都国に勤めていて、入出国・輸出入の管理を行なう。
⇒「一大率」 の真の役割は、伊都国王を監視して、邪馬壹国に従属させること。
今になっても、伊都国王を滅ぼさないのは、伊都国王が、(元)倭王の家系であり、
韓地(弁辰)から倭地に鉄資源を輸入する上で、伊都国水軍の力が不可欠のため。
● この視察のとき(西暦240年)、卑彌呼は、(倭暦の2倍年暦)113歳(2倍数)位。
⇒倭国大乱後、卑彌呼が倭王に共立されたとき(西暦190年頃)から、既に(魏暦)
50年が経過しており、例えば、卑彌呼が、下記項目 5.35 の壹與と同じく、
(倭暦の2倍年暦)13歳(2倍数)=(魏暦)6歳半 頃に共立されたとすれば、
このとき、(倭暦の2倍年暦)113歳(2倍数)=(魏暦)57歳 位である。
● 女王卑彌呼には、夫がなく、倭の運営は、邪馬壹国女王兼倭王(卑彌呼)-「男弟」
摂政体制で行なう。
⇒共立された女王には、世継ぎができないため、死後、内紛が起きる可能性大。
● 倭の主要 9国と狗奴国の官職名 [王と大夫は個人名] を纏めると、次の通り。
| 国名 | 王 | 大夫 (使者) | 大官 | 副大官 |
| 狗邪韓国 コゥシェ (コヤ 九屋) | - | - | - | - |
| 對海国 トイハイ (トハナ 十端) | - | - | 卑狗 ペィコゥ (ヒコ 一子/彦) | 卑奴母離 ペィヌゥムゥリィ (ヒノモリ 一の守) |
| (一大)国 (イーター) (ヒタ 一田) | - | - | 卑狗 ペィコゥ (ヒコ 一子/彦) | 卑奴母離 ペィヌゥムゥリィ (ヒノモリ 一の守) |
| 末盧国 ムァドゥ (ムウラ 六浦) | - | - | 卑狗 ペィコゥ (ヒコ 一子/彦) | 卑奴母離 ペィヌゥムゥリィ (ヒノモリ 一の守) |
| 伊都国 イートゥ (イツ 五津) | 男王 代々 | - | 爾支 アーチー (アキ 空き) | 泄謨觚柄渠觚 シェモァクーピィンチィクー (シモコヘキク 下声聞) |
| 奴国 ヌゥ (ナカワ 七川) | - | - | 兕馬觚 スーマァクー (スマコ 住子) | 卑奴母離 ペィヌゥムゥリィ (ヒノモリ 一の守) |
| 不彌国 プーミィ (フミ 二水) | - | - | 多模 トゥオモァ (トモ 伴) | 卑奴母離 ペィヌゥムゥリィ (ヒノモリ 一の守) |
| 投馬国 タォマァ (トマ 十海) | - | - | 彌彌 ミィミィ (ミミ 水見) | 彌彌那利 ミィミィナリ (ミミナリ 水見成) |
| 邪馬壹国 シェマァイー (ヤマヒ 八幣) | 女王 卑彌呼 ペィミィクー (ヒミコ 一三子 一女子) 女王 壹與 イーユィ (イヨ 伊豫) | 難升米 ナァンシャンミィ (ナサシミ 名指身) 都市牛利 トゥシニョゥリ (ツシマノリ 津島乗) 伊聲耆掖邪狗 イーシァンチィイェシェコゥ (イサキヤク 入先役) 載斯烏越 ザーイスウーイェ (サシウエ 指上) | 伊支馬 イーチーマァ (イキマ 活目) | 彌馬升 ミィマァシャン (ミマサ 見目早) 彌馬獲支 ミィマァホァチー (ミマワキ 見目脇)奴佳鞮 ヌゥチャーティー (ノチテ 後手) |
| 【特置】(一大)率 (イーター)シュワイ (セハ 世話)(大)倭 (ター)ウォ (ワ 回) | ||||
| 狗奴国 コゥヌゥ (コノ 九野) | 男王 卑彌弓呼 ペィミィコンクー (一三九子) | - | 狗古智卑狗 コゥクーチペィコゥ (コクチヒコ 九口彦) | - |
6.22 倭の歴史推定
◆歴史 (倭人のルーツは、中国からの渡来人を受け入れた倭地の縄文文化先住民)
● 大陸と九州が、温暖化海進により、分かれる(西暦前10,000年頃)前から居た九
州の縄文文化先住民(推定約 2,000人)が、倭人のルーツ。
⇒九州の縄文文化先住民は、西暦前7,000年頃に、集落定住型の狩猟・採集・漁労
生活に発展(⇒縄文早期)。
● 倭には、商(殷)代に似た占いがあり、女王卑彌呼が商(殷)代に似た祭祀を行ない、
倭地では、皆、身体に白粉でなく、商(殷)代由来の丹(辰砂)から作られた装身用紅
色泥土を塗っているように、中国からの渡来人の 1つは、商人(殷の遺民)。
⇒商人は、西暦前1,046年頃、九州の縄文文化先住民に、水稲耕作と商(殷)の祭祀
制度(鬼神崇拝)をもたらして弥生文化人に変化させ、
多婆那国⇒那国⇒奴国⇒邪馬壹国⇒倭 へと続く倭の女王系統を生んだ。
商人としては、商朝第23代帝王武丁の寵姫で 1万3千の兵を率いた女将軍 「婦好」
のように、女性がトップに立つことについて、抵抗感がない。
● 倭の使者が、身体に刺青をし、皆、大夫夏后少康の子孫であると自称するように、
中国からの渡来人の 1つは、越人(越の遺民)。
⇒西暦前334年頃、韓地の南海岸に渡来して 「倭人」 を自称した越人は、
西暦100年頃、九州の弥生文化人に韓地の鉄資源をもたらして受け入れられ、
弁辰狗邪国⇒委国⇒委奴⇒倭⇒伊都国 へと続く倭の男王系統を生んだ。
● 「洲島」 の倭地が、秦代の徐福が到ったとされる 「平原廣澤」(氾濫川の流域)の
地(筑紫平野)にふさわしいことから、渡来人の 1つは、徐人(徐福一行)。
⇒徐人は、西暦前219年頃、九州の弥生文化人に受け入れられて、弥生文化を発展
させ、狗奴国の男王系統を生んだ。
● 西暦107年頃には、「山島」 の国が 100餘国あったが、今般、西暦239年の倭
では、国数が 30国である。
⇒100餘国が 30国に統合され、領域は、「洲島」 の倭地にまで、拡大している。
● 倭国大乱の前(西暦146年頃以前)は、(倭暦の2倍年暦)70~80年間(2倍数)
=(魏暦)35~40年間、倭国王帥升のような男王がいた。
⇒倭国大乱の前(西暦146年頃以前)を、(倭暦の2倍年暦)「七八十年」(2倍数)
=(魏暦)35~40年 遡ると、西暦106~111年頃になり、
弁辰狗邪国⇒委国⇒ から続く倭の男王系統で、
西暦107年に倭王になった帥升が、これに対応する。
● 「倭國亂相攻伐歴年」 の倭国大乱は、西暦146~189年頃の 約40年間。
⇒倭国大乱(後漢朝桓帝・霊帝の在位期間の西暦146~189年頃とされている)
は、どのように発生したか?
【西暦100年頃】 委奴による那国(北九州)併合
委奴は、北九州上陸に際して、那国(元商人)を、次のように和解・併合した。
①那国を、末盧国(捕虜区)・伊都国(国王区)・奴国(女王区)に分割する。
②委奴の都を、委国⇒伊都国に移す。
③委奴王が、伊都国王を兼ね、伊都国男王-奴国女王体制で運営する。
この頃、委奴の編成を整備した。
①弁辰狗邪国は、巨済島を拠点に韓地で、弁韓拡大・捕虜獲得を担当する。
②多婆那国は、全対馬に復元し、兵員・物資・捕虜の輸送を担当する。
③委国は、壱岐のみとし、鉄製武器の量産を担当する。
【西暦146年頃】 倭国大乱開戦 (狗奴国戦争)
倭軍(伊都国軍)が、末盧国南から狗奴国に侵入するも、狗奴国軍の反撃で大敗し、
陸戦での倭軍(伊都国軍)の弱さが露呈したため、倭軍の強化・再編を実施した。
①倭軍は、韓地では、伊都国水軍が主力となり、倭地では、奴国陸軍が主力となる。
②奴国には、委国から鉄製武器を供給する。
③奴国南の狗奴国との国境付近に、狗奴国に対する奴国砦を築く。
このとき、伊都国王家と伊都国水軍の一部が、新天地を求めて倭地東方に脱出し、
倭地における伊都国王家の衰退が始まった。
⇒倭国大乱(狗奴国戦争)は、どのように進み終結したか?
【西暦150年頃】 奴国砦攻防戦 (消耗戦)
奴国砦を低地分水嶺の狗奴国側に築いたことが、
狗奴国の都の在る平原廣澤の地(筑紫平野)の水利を害することになり、
狗奴国軍が、奴国砦を突破し、奴国に侵入したため、
倭軍(奴国陸軍)は、消耗戦で狗奴国軍を撃退して、故地を奪還した。
この奴国砦の攻防戦が、その後、狗奴国との全面戦争に拡大することとなる。
【西暦160年頃】 奴国東南戦 (邪馬壹国建国)
倭軍(奴国陸軍)は、奴国東南の倭地東部方面(狗奴国軍の手薄領域)に
侵攻・占領し、邪馬壹国を建国した。 (倭の鉄製武器が、狗奴国を圧倒)
奴国女王を邪馬壹国に招聘して、伊都国倭王-邪馬壹国女王体制とし、
倭軍(奴国陸軍)は、そのまま、(元)奴国女王の邪馬壹国女王が率いる。
【西暦170年頃】 平原廣澤戦 (狗奴国の都陥落)
倭軍(奴国陸軍)は、狗奴国の都の在る平原廣澤の地(筑紫平野)に、
邪馬壹国側から侵攻し、投馬国を建国すると共に、奴国砦の地に、
玄界灘と有明海を結ぶ通行・物流の拠点として、不彌国を建国した。
【西暦180年頃】 山麓平原戦 (狗奴国の新都陥落)
狗奴国は、都を南方の山麓平原の地(熊本平野)に移していたが、
投馬国側からの倭軍(奴国陸軍)の侵攻により、新都が陥落した。
【西暦189年頃】 山間狭隘戦 (狗奴国を大隅僻地に追い込む)
狗奴国は、都を更に南方の山間狭隘の地(人吉盆地)に移していたが、
倭軍(奴国陸軍)により、倭地南端の大隅僻地(肝属平野)に追い込まれて降伏、
男王(卑彌弓呼より前の男王)は自害し、倭国大乱(狗奴国戦争)は、終結した。
● 倭国大乱終結後、諸国は、特別の女子卑彌呼を、邪馬壹国女王兼倭王に共立した。
⇒邪馬壹国女王卑彌呼が、倭王に共立された理由は?
【西暦190年頃】 狗奴国の跡地に旁国21国が独立し、
戦後の論功行賞で、顕著な働きのあった奴国陸軍を擁する奴国には、
旁国21国の南限の 1国(奴国分国)を与えて、狗奴国を監視させることになった。
以後、実権が、伊都国水軍を率いる伊都国倭王から奴国陸軍を率いる(元)奴国女
王の邪馬壹国女王へ移り、倭の諸国もこれを支持し、邪馬壹国の新女王兼倭王と
して卑彌呼を共立し、倭の都も、伊都国⇒邪馬壹国 に移すことになった。
このとき、卑彌呼(一三子・一女子)は、奴国女王系統の巫女で、後の壹與と同様、
(倭暦の2倍年暦)13歳(2倍数)=(魏暦)6歳半 で即位したものと考えられる。
● 邪馬壹国女王兼倭王が成立してから、伊都国王は、代々邪馬壹国に従属している。
⇒伊都国王が、代々、邪馬壹国に従属している理由は?
西暦190年頃から、実権が、伊都国倭王から邪馬壹国女王へ移ったことにより、
伊都国倭王-邪馬壹国女王体制から、邪馬壹国女王兼倭王(卑彌呼)-伊都国王摂
政体制に変わり、更に、西暦233年頃、
卑彌呼(魏暦 50歳位)は、摂政を一族の 「男弟」(魏暦 30歳位)に変更して、
邪馬壹国女王兼倭王(卑彌呼)-「男弟」 摂政体制になり、
この視察のとき(西暦240年)に至っているため。
● 帶方郡の後任太守が着任した西暦247年、女王卑彌呼は、狗奴国の男王卑彌弓呼
と争っていた戦況を、使者に説明させている。
⇒狗奴国の男王卑彌弓呼は、卑彌呼の(元)「男弟」 である。
邪馬壹国女王兼倭王(卑彌呼)-「男弟」 摂政体制では、この 「男弟」 が、実際の政
治を行っていたので、「男弟」 は、女王卑彌呼の後継者として、将来の男王を自認。
前々年(西暦245年)頃から、女王卑彌呼が病気がちになり、
「男弟」 は、倭王代行になって、自ら、男王のような振る舞いをするようになった。
諸国としては、共立したのは女王卑彌呼であって、「男弟」 ではなく、卑彌呼が死
んだときには、「男弟」 も死すべきと考えて、「男弟」 を排除する動きとなった。
「男弟」 は、女王卑彌呼の近衛兵を私物化して、反乱(西暦246年頃)を起こした
ものの、奴国陸軍によって鎮圧されて、狗奴国に追放された。
狗奴国では、先の戦争(倭国大乱)で降伏したとき(西暦189年頃)の男王は、
自害し、その子孫・遺臣は謹慎していたが、西暦246年頃、邪馬壹国から狗奴国に
追放された卑彌呼の(元)「男弟」 を、男王卑彌弓呼(卑彌呼弟・一三九子)にした。
● 魏の黄幢が、到着したとき(西暦248年6月)からまもなくの卑彌呼の病死で、
邪馬壹国女王兼倭王(卑彌呼)-摂政体制が崩れ、
伊都国王(男王)が、邪馬壹国王兼倭王に立って、内紛が起き、
同年 9月頃に、邪馬壹国女王兼倭王(壹與)-摂政体制に戻った。
⇒伊都国王(男王)が、邪馬壹国王兼倭王に立って、内紛が起きた訳は?
このとき、(元)倭王であった伊都国王(男王)は、倭王に復帰するチャンスと見て、
伊都国水軍を率いて倭王に立ったが、伊都国王が、邪馬壹国とその王を乗っ取る
ように見えたので、諸国が反発、奴国と奴国陸軍を敵に回して争うことになった。
和解に至ったものの、伊都国王家は、追放された。
⇒宗女壹與(伊豫)即位(西暦248年9月頃)後、狗奴国を滅ぼす経緯は?
西暦246年頃、狗奴国は、狗奴国に追放されて来た卑彌呼の(元)「男弟」 を、
狗奴国男王卑彌弓呼(卑彌呼弟・一三九子)にして、最後の抵抗を試みたが、
倭の豊富な鉄製兵器が、狗奴国の兵力を上回っており、
また、魏から黄幢が、到着した(西暦248年6月)ことにより、
邪馬壹国女王兼倭王(壹與)は、第3次朝貢のとき(西暦249年6月)までに、
狗奴国を滅ぼすことに成功し、そのとき、(元)「男弟」 は、倭地の東方海上に逃亡
し、狗奴国の遺民は、倭地の南方・東方海上に四散した。
● 女王卑彌呼の死で、径 100餘歩(5倍数)の 「冢」 を大作、殉葬者は奴婢 100餘人。
⇒卑彌呼の死(西暦248年6月頃)の年齢は?
卑彌呼が、(倭暦の2倍年暦)13歳(2倍数)=(魏暦)6歳半 で、
邪馬壹国女王兼倭王に即位(西暦190年頃)してから、(魏暦)58年経過している
ので、(倭暦の2倍年暦)129歳(2倍数)=(魏暦)65歳位 である。
⇒女王卑彌呼の 「冢」 は、どこに在るか?
径 100餘歩(5倍数)=20餘歩(基数)⇒28.9m の円墳は、
邪馬壹国の神殿付近(現代の由布市庄内町~挾間町)に在る。
6.23 倭の歴史年表 (上記項目 6.22 「歴史の要点」, 6.3 「外交史のまとめ」 から)
◆要約すれば、九州に住む縄文文化先住民が、商人(殷の遺民)と徐人(徐福一行)の移
民を受入れて弥生文化人に変わると、韓地の南に渡来して 「倭人」 を自称していた
越人(越の遺民)が、韓地の鉄資源を得て九州に上陸したが、商人(殷の遺民)系九州
弥生文化人が、「倭人」 呼称を継承して、九州で勢力を拡大するに至る闘争の歴史。
| 西暦 | 倭 | 中国/朝鮮 | |
| 前 7,000年 | 大陸と九州が、温暖化海進により、分か れる(前10,000年頃)前から居た九州 先住民の縄文文化が発展(⇒縄文早期) | 中 国 | 長江流域に、彭頭山文化登場 長江流域で、稲作が始まる |
| 前 2,000年 | 中 国 | 最古の国家、夏成立 (夏は、前1,600年まで) | |
| 前 1,600年 | 中 国 | 商の湯王が夏を倒し、商(殷) 建国(商は、前1,046年まで) | |
| 前 1,046年 | この頃、商人(殷の遺民)が、 対馬・壱岐経由、北九州に渡来し、 対馬に、多婆(対馬)那国を建国し、 壱岐・北九州に、那国を建国して、 女王-摂政体制で運営 縄文文化先住民に、水稲耕作と商(殷) の祭祀制度(鬼神崇拝)が伝来 | 中 国 / 朝 鮮 | 周王姫昌の子姫発は、商(殷) を倒し、周建国 (周は、前256年まで) ⇒商人(殷の遺民)は四散 商の紂王の叔父に、箕子朝鮮 を建国させる (箕子朝鮮は、前194年まで) |
| 前771年 | 中 国 | 周は、犬戎に侵略され、一旦、 滅亡(前を西周、後を東周) 春秋戦国時代、始まる | |
| 前334年 | この頃、越人(越の遺民)が、韓地の南海 岸に渡来して、韓地の 「倭人」 となる | 中 国 | 越(夏分家)が、楚に滅ぼさる ⇒越人(越の遺民)は四散 |
| 前256年 | 中 国 | 秦が、東周を滅ぼすが、 王族は、存続 | |
| 前221年 | 中 国 | 秦の始皇帝が、戦国6国(韓・ 魏・楚・趙・燕・斉)を滅ぼして 統一(秦は、前206年まで) | |
| 前219年 | この頃、徐人(徐福一行、3,000人の 童男童女と百工)が、五穀の種を持って、 済州島経由、九州中部に渡来 徐福は、平原廣澤の地(筑紫平野)で、 (狗奴)国王となる(前180年没) 道具(木製・青銅製)・技術者・五穀の種 (粟・黍・小麦・大豆・水稲、 気候によらず、食糧供給が安定)が伝来 | 中 国 | 秦の始皇帝が、 徐福(夏の初期に徐に封され た王家の後裔)に、 長生不老の霊薬探索を命じる ⇒徐人(徐福一行)は東海へ |
| 前206年 | 中 国 | 劉邦により、秦の都が陥落し、 秦滅亡 | |
| 前202年 | 中 国 | 劉邦(高祖)が、漢王朝を興す (前漢は、8年まで) | |
| 前194年 | 朝 鮮 | 燕の衞満が、箕子朝鮮を乗っ 取り、衛氏朝鮮成立 (衛氏朝鮮は、前108年まで) 箕子朝鮮の王箕準は、脱出し、 馬韓を攻めて、王となる この頃、韓地を馬韓という | |
| 前160年 | この頃、韓地の 「倭人」 は、韓地の南海岸 に、弁辰狗邪国を建国し、「弁韓」 とする | 朝 鮮 | |
| 前108年 | 朝 鮮 | 漢が、衛氏朝鮮を滅ぼして、 4郡(楽浪・真番・臨屯・玄菟) を設置 | |
| 前100年 | この頃、弁辰狗邪国は、楽浪郡経由、 漢王朝へ朝貢を始め、輸入した青銅器 を基に、青銅製武器の生産を始める 一方、狗奴国(元徐人)の勢力は、 九州中部から九州南部に及ぶ | 朝 鮮 | この頃、楽浪郡は、 亡命中国人のために、 馬韓東部を、 馬韓属国の辰韓として分離 |
| 前82年 | 朝 鮮 | 真番郡・臨屯郡が、廃止される | |
| 前75年 | 朝 鮮 | 玄菟郡が、西に移され、 韓地は、楽浪郡だけとなる | |
| 前57年 | 朝 鮮 | 辰韓の地に、赫居世王が、 斯盧国を建国 | |
| 前50年 | 弁辰狗邪国が、斯盧国へ侵攻するも、 斯盧国初代赫居世王の重臣瓠公(元韓地 の倭人)との交渉により、撤退 撤退の代りに、辰韓の南海岸近海に在る 巨済島を獲得し、弁辰狗邪国の都とする | 朝 鮮 | |
| 前37年 | 朝 鮮 | 高句麗成立 (高句麗は、668年まで) | |
| 前30年 | この頃、弁辰狗邪国は、多婆那国(元商 人)を対馬北島の北端に追いやり、 対馬南島と那国(元商人)の壱岐を奪 い、委国を建国して、壱岐を王都とする 委国は、弁辰狗邪国・多婆那国を統率し、 委国連合軍を編成して、 倭地に、委国の支配領域を築き始める | 朝 鮮 | |
| 前20年 | 朝 鮮 | 斯盧国は、馬韓に瓠公を派遣 し、馬韓属国からの脱退表明 辰韓の亡命中国人らにより、 斯盧国の国力が向上 | |
| 5年 | この頃、(元商人)多婆那国・那国、 (元越人)弁辰狗邪国・委国、 (元徐人)狗奴国等、100餘国が分立 | 朝 鮮 | |
| 8年 | 中 国 | 王莽が、漢王朝の帝位を簒奪 し、新建国(新は、23年まで) | |
| 14年 | 委国軍は、兵船 100餘艘で、斯盧国海辺 に調査進出 | 朝 鮮 | |
| 25年 | 中 国 | 光武帝が、後漢朝を再興 (後漢は、220年まで) | |
| 30年 | この頃、委国は、 楽浪郡経由、後漢朝に朝貢を開始 | 朝 鮮 | 後漢朝が、楽浪郡を接収 |
| 44年 | 委国軍は、楽浪郡と示し合せ、兵船 100 餘艘で、斯盧国海岸を攻撃している間に、 手薄になった斯盧国の都を楽浪軍が占領 委国軍は、楽浪軍に代って、斯盧国に駐 屯し、楽浪軍が、弁辰鉄山を接収 | 朝 鮮 | 楽浪軍は、弁辰鉄山の斯盧国 勢力を排除して、接収・駐屯 (弁辰は、辰韓に混在の弁韓) |
| 57年 | この頃、委国は、多婆那国・弁辰狗邪国等 (委国連合)を統括する国号を、「委奴」 とし、委国王が、委奴王を兼ねる 委奴王が、後漢朝に朝貢し、後漢朝光武帝 から、「漢委奴国王印」 を下賜される 楽浪郡による弁辰鉄山の接収に寄与し た委国を承継する 「委奴」 に、楽浪郡か ら、弁辰鉄山の一部採掘と斯盧国駐屯の 継続を承認される 多婆那国生れの脱解尼師今(62歳)が、 第4代斯盧国王になる(80年まで) 脱解尼師今は、斯盧国駐屯の(元)司令 官多婆那国は、委国の東北、1,000里 | 中 国 / 朝 鮮 | |
| 59年 | 「委奴」 は、斯盧国と修好通商条約を締結 (弁辰鉄山採掘に関する協力条約) | 朝 鮮 | |
| 60年 | この頃、「委奴」 は、斯盧国駐屯を解消し、 馬韓・濊と競って、弁辰鉄山から鉄を 採取し、鉄製武器の生産を始める | 朝 鮮 | |
| 73年 | 委奴軍は、斯盧国の木出島に進出して、 斯盧国が横領した 「委奴」 の鉄を奪還 斯盧国の角干羽鳥が、戦死 | 朝 鮮 | |
| 77年 | 斯盧国が、弁辰狗邪国に報復攻撃 | 朝 鮮 | |
| 100年 | 那国(北九州)併合 この頃、「委奴」 は、北九州の那国(元商 人)を次のように、和解・併合 ①那国を、末盧国(捕虜区)・伊都国 (国王区)・奴国(女王区)に分割 ②「委奴」 の都を、壱岐⇒伊都国に移す ③委奴王が、伊都国王を兼ね、 伊都国男王-奴国女王体制で運営 この頃、「委奴」 の編成を整備 ①弁辰狗邪国は、巨済島を拠点にし、 韓地で、弁韓拡大・捕虜獲得を担当 ②多婆那国は、全対馬に復元し、 兵員・物資・捕虜の輸送を担当 ③委国は、壱岐のみとし、 鉄製武器の量産を担当 | 朝 鮮 | |
| 107年 | この頃、「委奴」 は、国号を、「倭」 に改称 倭国王帥升らが、後漢朝安帝に朝献 国号改称の報告と生口 160人の献上 以後、「漢委奴国王印」 は、不要となる | 中 国 | |
| 121年 | 倭軍は、斯盧国の東海岸に、誇示進出 | 朝 鮮 | |
| 123年 | 倭-斯盧国で、相互不可侵条約を締結 | 朝 鮮 | |
| 146年 | 倭国大乱開戦(狗奴国戦争) この頃、倭の伊都国軍が、末盧国南から 狗奴国に侵入するも、狗奴国の反撃で、 大敗⇒伊都国軍の陸戦での弱さを露呈 以後、倭軍の強化・再編を実施 ①倭は、韓地では、伊都国水軍が主力、 倭地では、奴国陸軍が主力となる ②奴国には、委国から鉄製武器を供給 ③奴国南の狗奴国との国境付近に、 狗奴国に対する奴国砦を築く この頃、伊都国王家の一部、倭地脱出 (狗奴国に大敗した引責退去) | 中 国 | 後漢朝桓帝が、即位 (167年まで) |
| 150年 | 奴国砦攻防戦(消耗戦) この頃、奴国の低地分水嶺の狗奴国側 に、奴国砦を築いたことが、 狗奴国の都の在る平原廣澤の地(筑紫 平野)の水利を害することになり、 狗奴国軍が、奴国砦を突破し、 奴国に侵入したため、倭軍(奴国陸軍) は、狗奴国軍を撃退して、奴国砦を奪還 この奴国砦の消耗攻防戦が、 その後、全面戦争に拡大することとなる | 中 国 | |
| 158年 | 倭-斯盧国の修好通商条約を更新 (59年の締結以来、100年目) | 朝 鮮 | |
| 160年 | 奴国東南戦(邪馬壹国建国へ) この頃、倭軍(奴国陸軍)は、 奴国東南の九州東部方面(狗奴国軍の 手薄領域)に侵攻し、邪馬壹国を建国 (倭の鉄製武器が、狗奴国を圧倒) 奴国女王を邪馬壹国に招聘して、 伊都国倭王-邪馬壹国女王体制となり、 倭軍(奴国陸軍)は、 (元)奴国女王の邪馬壹国女王が率いる | 朝 鮮 | |
| 167年 | 中 国 | 後漢朝霊帝が、即位 (189年まで) | |
| 170年 | 平原廣澤戦(狗奴国の都陥落) この頃、倭(奴国陸軍)は、狗奴国の都 の在る平原廣澤の地(筑紫平野)に、邪 馬壹国側から侵攻して、投馬国を建国、 奴国砦の地に、玄界灘と有明海を結ぶ 通行・物流の拠点として、不彌国を建国 | 朝 鮮 | |
| 180年 | 山麓平原戦(狗奴国の新都陥落) この頃、狗奴国は、都を南の山麓平原の 地(熊本平野)に移していたが、投馬国側 から倭軍(奴国陸軍)の侵攻で、新都陥落 | 朝 鮮 | |
| 189年 | 山間狭隘戦(狗奴国を僻地に追い払う) この頃、狗奴国は、都を更に南の山間狭 隘の地(人吉盆地)に移していたが、 倭軍(奴国陸軍)により、九州南端の大 隅僻地(肝属平野)に追い込まれて降伏 ⇒倭国大乱(狗奴国戦争)終結 | 朝 鮮 | |
| 190年 | この頃、狗奴国の跡地に旁国21国独立、 倭国大乱戦後の論功行賞では、顕著な 働きのあった奴国陸軍を擁する奴国に、 旁国21国の南限の 1国(奴国分国)を 与えて、狗奴国を監視させる 実権が、伊都国水軍を率いる伊都国王 から奴国陸軍を率いる邪馬壹国女王 へと移り、邪馬壹国女王兼倭王として、 卑彌呼が共立され、邪馬壹国女王兼倭 王 - 伊都国王摂政体制となって、 倭の都も、伊都国⇒邪馬壹国に移される | 朝 鮮 | |
| 193年 | 韓地に大飢饉が発生し、韓地の1,000餘 の倭人が、食糧を求めて斯盧国へ向かう | 朝 鮮 | |
| 204年 | 朝 鮮 | 後漢朝遼東郡太守公孫氏が、 楽浪郡南に帶方郡を設置 | |
| 208年 | 倭軍(伊都国水軍)が、斯盧国国境に進出 | 朝 鮮 | |
| 220年 | 中 国 | 後漢朝が滅び、魏文帝曹丕が、 魏を建国(魏は、265年まで) | |
| 221年 | 中 国 | 蜀漢昭烈帝劉備が、蜀を建国 (蜀は、263年まで) | |
| 222年 | 中 国 | 呉大帝孫権が、呉を建国 (呉は、280年まで) | |
| 232年 | 倭-斯盧国の相互不可侵条約満了 (123年の締結以来、100年目) 倭軍(伊都国水軍)が、斯盧国の都を包囲、1,000餘の倭兵戦死 | 朝 鮮 | |
| 233年 | 倭軍(伊都国水軍)が、斯盧国東辺を攻撃 この頃、女王兼倭王卑彌呼の摂政を、 伊都国王⇒「男弟」 に変更 | 朝 鮮 | |
| 238年 | 朝 鮮 | 8月 魏の司馬懿が、公孫氏 を討ち、帶方郡を支配 | |
| 239年 | 6月 女王卑彌呼の使者大夫難升米ら が、魏朝帶方郡太守劉夏を通じ、 魏朝に朝貢(第1次朝貢) 12月 魏朝から、詔書・印綬・賜物を仮授 | 中 国 | 1月 魏朝明帝曹叡が急死⇒ 司馬懿が、魏朝の幼年 の養子斉王曹芳を後見 |
| 240年 | 6月 帶方郡太守弓遵の使者建忠校尉 梯儁らが、詔書・印綬・賜物を 倭王卑彌呼に送達 | 中 国 | |
| 241年 | 6月 倭王卑彌呼の使者大夫難升米ら が、魏朝の詔書に対する 倭王の答礼を上表(冊封承諾) | 中 国 | |
| 243年 | 6月 倭王卑彌呼の使者大夫伊聲耆掖 邪狗らが、魏朝帶方郡太守弓遵 を通じて朝貢(第2次朝貢) 12月 魏朝から、詔書・印綬・賜物を仮授 | 中 国 | |
| 244年 | 6月 帶方郡太守弓遵の使者梯儁らが、 魏朝の詔書・印綬・賜物を 倭王卑彌呼に送達 | 中 国 | |
| 245年 | 6月 倭王卑彌呼の使者大夫難升米ら が、魏朝の詔書に対する 倭王の答礼を上表(黄幢請願) 12月 魏朝から、詔書・黄幢を仮授 | 中 国 | |
| 246年 | (元)摂政 「男弟」 が、狗奴国に追放さ れ、狗奴国男王卑彌弓呼となる | 中 国 | |
| 247年 | 6月 倭王卑彌呼の使者大夫載斯烏越ら が、魏朝帶方郡太守王頎に 戦況説明(黄幢督促) | 中 国 | |
| 248年 | 6月 帶方郡太守王頎の使者張政らが、 魏朝の詔書・黄幢を難升米に送達 卑彌呼病床⇒死後、 伊都国王(男王)が、倭王に立っ て、内紛発生⇒鎮圧される 9月 女王壹與が、倭王を継承 12月 狗奴国滅亡(狗奴国遺民は四散) | 中 国 | |
| 249年 | 6月 女王壹與の使者大夫伊聲耆掖邪 狗らが、魏朝の詔書に対する 倭王の答礼を上表(黄幢答礼) 併せて、緊急朝貢(第3次朝貢) | 中 国 | 1月 司馬懿が、魏の曹爽を 討ち、魏朝斉王曹芳を 傀儡に(高平陵の変) ⇒次の晋王朝の基礎 |
6.24 上記項目 6.23 「倭の歴史年表」 における倭の変遷図
①前1,046年頃
商人(殷の遺民)が、九州に渡来、対馬に多婆那国、壱岐・北九州に那国を建国
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越人(越の遺民)が、韓地南に渡来/徐人(徐福一行)は、九州中部に渡来、狗奴国を建国
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狗奴国(元徐人)は、九州南部にまで拡大 韓地の倭人(元越人)が、弁辰狗邪国を建国
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弁辰狗邪国が、壱岐に委国を建国 委国連合国号を、委奴とする (斯盧国駐屯)
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委奴が、那国(北九州)を併合 委奴は、国号を倭に改称
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倭国大乱開戦 (狗奴国戦争) 奴国砦攻防戦 (消耗戦)
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奴国東南戦 (邪馬壹国建国へ) 平原廣澤戦 (狗奴国の都陥落)
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山麓平原戦 (狗奴国の新都陥落) 山間狭隘戦 (狗奴国を僻地に追い払う)
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狗奴国跡地に旁国21国独立 (奴国分国) 狗奴国滅亡 (狗奴国遺民は四散)
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6.25 上記項目 6.24 「倭の変遷図」 から推定される倭のその後
◆狗奴国のその後
狗奴国の遺民で、(元)「男弟」 と共に、四国地方(侏儒国)に逃亡した者は、
後に、中国地方(倭種の国)や近畿地方の熊野勢力になり、
九州の倭(倭地)の外側東方を統一して、大国 「オオクニ」 を建国。
一方、種子島・屋久島や南西諸島に逃亡した者は、
後に、その一部が、九州南部にカムバックして、熊襲となる。
◆邪馬壹国のその後
邪馬壹 「ヤマイ」 国は、奴国と不彌国を吸収し、
投馬 「トマ」 国を併合して、邪馬投 「ヤマト」 国となり、その都は、倭 「ワ」 の都を兼ねて、
(元)邪馬壹国の地(大分平野)から(元)投馬国の地(筑紫平野)に移すとともに、
倭の呼称を 「ワ」⇒「ヤマト」(元祖ヤマト)に変更。
その後、この九州の倭(邪馬投) 「ヤマト」 は、九州全土の国を併合し、
中国地方(倭種の国)・四国地方(侏儒国)に侵出して、これらを統一する。
◆伊都国のその後
倭国大乱開戦(狗奴国戦争)のとき、倭軍(伊都国水軍)が、陸戦の弱さを露呈して、
狗奴国軍に大敗した責任をとるため、伊都国王家の一部は、一族の本家を残して、
伊都国水軍と共に、倭地を脱出し、狗奴国遺民建国の大国 「オオクニ」 に向けて侵出。
その後、移住先の大国 「オオクニ」 の一部(畿内地区)に、九州の倭 「ヤマト」(元祖ヤマト)
に対抗して、大国 「オオクニ」 の倭 「ワ」 として、大倭 「タイワ」 を建国し、
後に、その呼称を、大倭 「タイワ」⇒大和 「タイワ」⇒大和 「ヤマト」 に変更するとともに、
ヤマト本家 を名乗るようになる。






























